長野県「学びの指標」について
新しい学びの指標について
先日、長野県高等学校教職員組合から「長野県教育委員会の新しい学びの指標(資料1)」への感想を求められました。中学校の教育に携わるものとして、興味深く「新しい学びの指標」(案)を読みましたが、いくつかの感想を持ったので、投稿しました。
<投稿>
今回の「長野県学びの指標」は羊頭狗肉そのものだと思います。理念は立派なもので(賛成できるかどうかは別として)、文字面だけを見ると悪くないようにも見えますが、簡単に言うと「高校生と教職員の管理、とりわけ生徒の人格管理に道を開くもので、自己肯定感をあげることにはつながらない」と思います。自己肯定感をあげるという場合、生徒が苦手としている教科の学習をどのように考えるかが示されなければなりません。県教委の示している内容は、学習のできる生徒中心に考えられており、それができないでいる生徒への苦しみに寄り添っていません。一つ例を挙げて考えてみたいと思います。「夢は僕らのロケットエンジン」を著した植松努氏の話です。植松氏は、小学校、中学校と落ちこぼれでした。理由は模型飛行機にはまって宿題をせず、勉強もしなかったからです。その代わり模型飛行機への造詣は深く、航空理論まで学んだということです。彼は北見工業大学に「スレスレ」で入学しましたが、その後、今まで自学自習してきた航空理論が大学の授業内容であることを知り、そこでの優等生になるのです。今や世界にも珍しい宇宙開発の研究所を立ち上げている北海道の小さな会社の社長になっています。
さて、長野県の「新しい学びの指標」では植松氏をどのように評価するのか考えてみました。植松氏には大変失礼ですが、彼の講演内容から次のような推測が成り立つので紹介します。
まず「学びの基礎診断」で、「基本的な学びがなっていない。習得できていないものが多い」と診断されます。彼は学校の勉強を一切行っていなかったので、学校でのテストは悲惨なものでした。教師から「植松。飛行機なんて役に立たん。勉強しろ」といわれ言われ続けてきました。次に学校で学んだことをもとに、活用能力を測られることになります。県教委は偏差値やぺ-パーテストでの評価が良いとは言っていないのですが、テストの点数で評価することをやめようとしていません。基礎的なことだけに限定しているというかもしれませんが、どのような評価をしようとしているのかは想像に難くないと思います。学校で決められた内容に沿って評価されるので、活用力・表現力・思考力も最低になってしまう。学びに向かう人間性に至っては、学校の学習をしないのだから、学びに向かわない人という評価です。結局植松氏の評価は彼が実際に受けてきた評価と同じく、彼の自己肯定感を高めるものにはならないでしょう。しかし県教委が掲げた理念をよく読むと、実は植松氏のように、本当に自分のやりたいことをもって、まい進する生徒を育てたいのではないのか?と感じます。何か一つ、自分の興味があることを真剣に深めることができる生徒を育てたい。だからこそ県立高校をはじめとして探求科のようは学科が新設されているのではないのでしょうか。植松氏のような「尖ったとげのある子ども」をこそ、正当に評価できる学校であるべきで、学校の定規を生徒に押し当てて、はみ出させないようにさせる今回の指標では、県教委が謳っている理念には到底たどり着かないのではないかと感じます。学校文化としての学習ではなく、自分の興味を持ったことを深く掘り下げる「探求」をしている子が正当に評価される、多様性を認める学校が求められています。それが学校のテスト点に反映されなくても、その子の興味を伸ばすことで、自己肯定感が高まれば、必要な時に自分から学習する生徒に育つと思うのです。そのためには、自分の興味・関心に対する学習を正当に評価してくれる評価制度と、応援し支えるてくれる学校環境、社会環境を整えることが必要です。教育行政の役割はそのような教育環境や条件を整えることではないでしょうか。この学びの指標では生徒が苦しむのではないかと心配してしまいます。
本当にテスト点で評価されない学校になってほしいと私は思っています。
長野県民間教育研究団体連絡協議会
事務局長 宮川 康浩